何をやっても良い一人の時間  − 子どもだって一人で居たい!

                           北沢 邦子
          
  家庭の外で働くお母さんにとって、年端の行かない子どもを一人家に残して留守番させておく事の不安と申し訳無さはとても大きいものがあります。「残された子どもの寂しさはいかばかりだろう」「なんとこどもに可哀想なことをしているのだろう」「誰か子どもと一緒に居てくれる人を探すべきだった」「できるなら子どもをこんな状況に置きたくない」「やはり退職して子どもと一緒にいようか」。母親の心は千千に乱れ、後悔とも自虐ともつかない苦い思いを抱かれた人も多いのではないでしょうか?

  先日図書館で、掌に収まってしまう程の小さな薄いお洒落な装丁の本に出会いました。原題を"Children and Solitude"といい、翻訳された表題は「子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)」。このSolitudeという言葉は他の人から切り離された一人ぼっちで孤独という状態を連想させますが、訳者の松岡享子さんは「一人で居る」と訳しています。この小さな本は1962年アメリカの女性社会学者エリーゼ・ボウリングによって書かれたものです。この本の中で、著者は「子どもが一人で居る事」の積極的な意味を明示しています。誰にも邪魔されない自由な時間。想いを自身の内面に向けるこが出来る十分な時間。それは子どもが子どもなりに自分自身を発見する為に欠かせない大事なことであり、一人で居るときにしか起こらないある種の成長がそこにあるのだと言うのです。それで訳者は孤独ではなく一人で居るという表現に換えたのでしょう。
 この本を読んでいる内に、娘が5年生のとき、親友の恵ちゃんのお母さんから聞いた話を思い出しましたので皆様にご紹介します。

 「たっだいまぁー」。誰もおうちには居ないと解っていても、惠ちゃんは学校から帰ると毎日大声で挨拶をします。それから首から下げた赤いリボンをまさぐって鍵を取り出すのですが… どうした訳でしょうか、いつもは下がっているはずの鍵が無いのです。「どうしよう」。玄関もお庭のガラス戸もピッタリと締まって開きません。「どうしよう。」お母さんが帰ってくるのは夕方です。途方にくれた惠ちゃんは随分と長い間、お庭にボーッと立ちすくんでいました。フト見上げると、洗面所の小窓が少し開いているではありませんか。手を伸ばしてみましたが窓には届きません。大きな石を見つけてエイコラと運んできました。その上に乗ってもう一度背伸びをしてみましたが届きません。背中のランドセルを放り出し何度も何度も飛び上がってみました。そうしてついに窓の枠にぶら下がる事が出来たのです。片手で体を支えてガラス窓を開けると、真っ白な洗面台が見えました。「ヨイショッ」。枠を持つ手に力が入り、横の棚柱につかまって体を滑り込ませ、ドーンと床に飛び降りました。 「ヤッターッ」 

 洗面所の窓から入ったおうちの中は、なんだかいつもと違う感じです。惠ちゃんは大きく深呼吸をして両手をいっぱいに伸ばして「あぁ良い気持ち。ここはわたしのおうち。 ぜ−んぶわたしのおうち。ぜーんぶわたしの時間。なにをやってもいい、だれにも邪魔されないわたしの時間」。惠ちゃんは本棚から1冊の本を取り出し、冷蔵庫の麦茶の瓶を抱え、おせんべを3枚ほど持ってお部屋の真中に腹ばいになりました。レースのカーテン越しにやわらかな午後の日差しが差し込んでいました。

 夕方お母さんが帰宅した時、出迎えてくれた惠ちゃんがどこか自信に溢れ、ちょっと大人っぽく見えたのだそうです。「お母さんが居なくたって平気だもん。鍵が無くたってちゃーんとおうちに入れたし、お留守番だってできたもん。」

  少子化が進んだ今日、私たちは一人か二人の子どもを大事に大事に丁寧に育てています。でも時とするとそれは、こどもから「孤独でいる時間」を取り上げてしまっているようです。子どもの自立を促す事が、子育ての究極の目的である事をもう一度思い出し、母親が無用な心配や自虐的な考えに捕われることなく、自ら選んだ道を自信を持って進んで欲しいと願っています。